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「コラム集」

「口福づくりのマエストロたちへ」
  第五話「走り・旬の一期一会」

大黒 俊樹  

「走り」と「旬」の食材。どちらを頂くのが栄養学的に良いのかは、恐らく定説があるのだろう。でも、どちらも言うまでもなく、期間が限られており、そこに遭遇できた喜びは禁じ得ない。まして、その食材がダブルキャストで、この上ない「一期一会」を演出してくれたなら、本当に深謝してしまう。カツオ(本来の旬は秋だが、初夏のカツオは「初鰹」として珍重される、アユ、アナゴ、ウナギ(本来の旬は晩秋から冬だが、出荷量は夏の土用の丑の日が年間最多となる。土用は年四回ある。

「筍」と言えば、いつが「走り」で、いつが「旬」か、地域によりことなるが、いつであろうと、地上に芽を現す前に、朝堀りされたモノは、このうえない衝撃を与えてくれる。

「地上に芽を現す前に、朝堀りする」とは、聞き慣れた言葉かも知れないが、伸展著しい筍にあって、このピンポイントで手に入れることは、お料理人自身の秘密の竹林でもあるか、そのお料理人のシンパとも言える農家の方のご支援がなければ手に入るモノではない。

筍は、地上に芽が出た途端にえぐみを帯び、しかも毎時数センチ以上で伸展する。そうした品物はお料理の店には出せない。が、土産店で言う「朝堀り」は、「朝に掘った」という程度まで定義は拡大する。これをもって「朝堀り」のなんたるかを誤解すると不幸である。

お料理人ご自身が秘密の竹林を隠匿している場合は、冬のうちから枯れ葉を絨毯のように敷いて、お湯をかける手間を惜しんではならないそうだ。お湯で「枯れ葉の絨毯」が発酵し、床暖房のようになる。そうすると、地中の筍は「春近し」と勘違いし、伸展が早まり、「枯れ葉の絨毯」をほんの少し押し上げるくらいのところで収穫するので、えぐみどころか、フルーティな液体を導管・師管に含んだ、フレッシュな果実の様相だ。

この段階なら、もちろん生で、ごく軽くわさびと醤油をつけて頂けば、甘さ控えめな梨の様な食感と味が口に広がる。意外と京都より、水茄子で有名な、泉州で獲れた絶品に遭遇することもある。

さて、筍の料理と言えば、かくも希有な刺身より馴染みがあるのは、「焼き筍」、「炊き合わせ」、「若筍煮」、などである。

写真1:筍焼き

「焼き筍」ほど、どこまで手をかけるかで、随分味わいの奥深さは変わる。切り込みの入れ方、どこからどのくらい、酒と醤油などを染み込ませるか、皮ごと何で焼くか、などだ。丁寧な仕事に木の芽添えは、定番ながら、美味しい。

わたしの長い筍遍歴で、丁寧に炭火で焼いた焼き筍とともに、記銘的意外性を醸し出してくれたのは京都鞠小路の某店。木の芽は添えておらず、「あれっ?」と思っていたところへ、「箸休めどす」と「木の芽のシャーベット」が、その爽やかさはまさに「春を告げる」もの。「添えただけやったら、面白うおまへんやろ」といたずらッ子ぽく笑みをこぼすご主人。

さすがに鹿児島大農学部卒、農家・漁師修行の遍歴を経てお料理人になられただけに、京都で、一食しかとれぬなら、迷わず訪ねる逸店であり、かの筑紫哲也氏が、病床で、「最後は○○の料理だ」との願いに、店を閉めて、東京癌センターまで出張するという心意気と暖かさは、京のありふれた名門店にはない。筑紫さんの笑みは、一生目に焼き付くほどの、満願の笑みだったそうだ。私たちも、患者さんにそんな至福の幸せをお届けしたいものだ。

さて「筍の炊き合わせ」となれば、何と共に炊いて下さるかで、大いに印象は変わる。京都五条駅からほど近い某店は、前述の鞠小路の店と同様、伝統京料理にとらわれず、故に京都の老舗からは手厳しい声もあるが、わたしに言わせれば、その豪快さは、終始、驚きの演出。至福な食材のミュージカル。この日ばかりは財布を気にせず「おまかせ」に限る。

写真2:筍と伊勢エビ

「炊き合わせ」の相方は、なんと、子をたっぷり抱いた伊勢エビだ。普通は、えぐみが最も少ない先端の柔らかいところで安泰に勝負する店が多い中で「お好きやっしゃろ?」と、図太い根元と、活きた伊勢エビを半身にぶつ切りにし、大将自ら、かしらから出汁に沈め素手で丁度良い具合に身の締まりを確認され、絶妙のタイミングで炊き上げて下さった。まさに、ホセ・カレーラスとルチアーノ・パヴァロッティが椀の中で競演をしているようだ。

「若筍煮」と言うと、筍を主演男優に例えれば、その出汁は主演女優である。くどいが、わたしの長い筍遍歴で、「主演女優」の最高峰は、「シジミの出汁」だ。魚をこよなく愛す客を「魚!命」で迎えてくださる恵比寿の某店のご主人は、本来は、ご自分が仕事の後の至福の一時の酒の肴にと秘蔵していた出汁を「これでどうすか?」と聞いてくださり、「それ!マジやばい!」とのわたしの返しに、秘蔵を快く豪勢に使い、炊き込んで下さった。

写真3:焼き松茸写真4:松茸汁

その「マジやばい」組み合わせに目を白黒させていると、ご主人が、「魚じゃなんですけど、仲買でこんなの、見つけちゃったんでぇ、焼きと炊きでボリボリどうです?」と、なんと筍の時期にもかかわらず、超走りの松茸を見せて下さった。外国産ながら、(というかそれゆえに)石付きもがっしりした、芳醇な香りで、一切、包丁を入れることすら憚られる逸品。手裂き、石付きも洗いもそこそこに、焼きと、椀を頂いた。まさに、珠玉の「旬と走り」のダブルキャスト。噛むほどに芳醇な香りが歯牙にまで纏う。

「筍」の時期のキャスティングは、これに留まらない。

写真5:グリーンピース車エビ

「筍と伊勢エビの炊き合わせ」を演出してくれた、京都のお店は、「こんなんしたら、グリーンピースお嫌いなお子も減りはるやろねぇ」と、炊いて、絶妙なタイミングで冷水にさらした「グリーンピースと冬瓜・車エビのあんかけ」を出して下さった。グリーンピースの若緑とエビの鮮やかな朱色のコントラストが美しい。

よほどのスキルでなければ皮に皺がより、硬く、モソモソとした粉っぽい食感になってしまうはずのそれを、まさに、小さなサツマイモのような上品な甘さと柔らかさに仕上げている。車エビの「海の甘さ」と、グリーンピースの「陸の甘さ」のハーモニーは、ご主人の言葉に乗せられ、子供に振る舞うには、あまりに罪深い、芸術的な感銘の一品であった。

写真6:モロコシ丸焼き

この「旬」達と悦楽の一時を過ごした後におとずれる「走り」が「トウモロコシ」だ、種の数と同じだけあるヒゲごと一口で頂ける、ベビーコーンのような丸焼きは、初夏の訪れを教えてくれる。

農薬・温室栽培、農協主導貧困農業などで「四季感が失われた」と言う人もいるが、それは、そこらのスーパー店頭の話で、確実に都市部でも、より鮮明に「四季感」を満喫出来る様になった。ただし、当然、見合った価格が設定されおり、それでも支持されている。

「価格」には「理由」があり、「理由」が「消費者の共感」を得られれば盛業する。患者「様」などと媚びて呼ぶよりも、「農協」や「社保庁」のような無用な連中を中抜きし、顧客と対等の立場=信頼の構築、即ち価格に応える「信頼」があれば高くても売れる。支持される品質を、腕と材質で磨き体現して、自分で積極的に主張して責任を果し、正当な対価を得ることこそが重要である。ほぼ野放図に自由診療が認められている歯科は、取り組み次第でやりたい放題のはずなのだが。

「口福づくりのマエストロたちへ」

 

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